日本の国民はアメリカの豊かなライフスタイルに憧れていた。1950年代後半になると、日本の経済成長が始まった。1956年経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言。テレビ、冷蔵庫、洗濯機が三種の神器と呼ばれ国民の指針となった。1955年、当時の通産省が国民車構想発表。1960年(昭和35年)9月池田内閣が所得倍増計画を打ち出す。テレビの受信契約500万件突破。映画は、アランドロンの「太陽がいっぱい」が公開され大ヒット。国民は、車、ヨットなどの贅沢品を身近に感じた。
61年6月、トヨタパプリカ発売。そして時代は1000cc大衆車元年を迎える。都市の住宅問題が深刻になる。住宅公団の入居競争は50倍に達した。1964年(昭和39年)東京オリンピック開催。その頃、もてはやされたものが、カー、クーラー、カラーテレビで、頭文字をとって3C時代と呼ばれた。車の普及に大きな役割をはたしたのが、1000ccクラスの車種だった。1966年(昭和41年)1月、日産は新しい大衆車の車名を公募した。国民総人口1億人弱の時代に850万件の応募があった。国民は車に対して高い関心を示した。応募ハガキは大型トラック数台で発表会場に運ばれた、と大きい話題になった。それはマイカー時代到来を予言していた。
面白いエピソードがある。ニューモデルの車名は、チェリー、ポニー、フジなどが人気を占め、約38万通りのネーミングがあった。結局、車名はサニーに決まる。しかしそれにはまだまだ余談があった。サニー、シニー、スニー、セニー、ソニーの商標はソニーが所有していた。ソニーと日産の交渉がおこなわれ、sonyから日産に譲渡された経緯がある。
1966年(昭和41年、大卒初任給の平均は、約2万3700円)、ダットサン(日産)サニー、トヨタカローラ、スバル1000がデビューした。一方、高速道路の整備が進み始め、水冷4気筒の余裕あるエンジン搭載車は、レジャードライブの主役として歓迎された。カローラは、発表直前に排気量を1000ccから1100ccに拡大。ライバルのサニーに対して「プラス100ccの余裕」をCMで歌い、セールス面で優位だった。車のある生活がステータスの時代だった。
ちなみに、その頃のトヨタの車名は、カローラ、コロナ、クラウン、センチュリーなど、頭文字がGM車と同じようにCでスタートしていた。何よりも物質的に豊かな生活を国民は求めていた。モノの時代だった。今日の、ダウンサイジングが先進的、という思考とは対照的な時代だった。